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九州大学大学院医学研究院 循環器外科 塩瀬 明教授 苦手なこと、嫌いなことがあったとき、私たちはどのような対応を取るだろうか。これらをできるだけ避ける、あるいはあえて取り組むという二つの道があるとしたら、九州大学大学院医学研究院循環器外科教授の塩瀬明氏は、間違いなく後者を選んできた。しかも全力で。塩瀬氏が今、若い医師たちに伝えているのが、武田信玄の名言「一生懸命だと知恵が出る 中途半端だと愚痴が出る いい加減だと言い訳が出る」だ。 |
■ 手術の結果がダイレクトに患者に影響する心臓外科へ
塩瀬氏の姉は喘息の持病があり、子どもの頃からよく発作を起こしていた。その度に母親は姉を背負い、病院へ駈け込んだ。病院で治療を受けると姉の発作は治まる。塩瀬氏の心には「医学はすごい」との思いが刻まれた。
高校で進学を決めるとき、パイロットになりたいとの気持ちもあり、九州大学医学部と航空工学を学べる東京大学理Ⅰを受験。見事、両大学に現役合格。迷った末に九州大学医学部への進学を選んだ。その大きな理由は、九州で生まれ育った塩瀬氏にとって九州大学はいわば“地元”の大学であったこと。さらに、「医者からパイロットになれるかもしれないけれど、パイロットから医者になるのは難しい」と考えたからだった。
大学時代について塩瀬氏は「バドミントンにはまって、極めて、極めて、不真面目な学生でした」と振り返り、苦笑いする。
臨床実習でさまざまな診療科をまわるうちに、大学を選んだときと同じように、外科医から内科医になることはできると思うが、内科医から外科医になるのは難しいと考えた塩瀬氏は、外科を希望。さらに外科の中でも心臓外科に惹かれた。
「例えば、がんの場合、がんを除去しても転移することがあります。また、手術だけでなく化学療法や薬物療法などを組み合わせる集学的治療が多く用いられます。一方、心臓外科は重篤な患者さんであっても手術を受けることで劇的に良くなります。生命に関わる心臓を扱うことはとても大変ですが、結果が明確に出る点も自分の性格にピッタリで、向いていると思いました」。
■ “苦手”というモヤモヤ感を解消したい

通常4年のところを3年で大学院を修了。その後、大学病院に戻り、しばらく成人とこどもの心臓手術に携わっていたが、体調が悪くなった医師の代わりに急遽福岡市立こども病院で勤務することになった。
「小児患者さんたちはきれいなかたちの心臓をもって生まれてきていません。どのようにして心臓のかたちや血流の経路をつくりかえるかが重要になってきます。とても面白く、一時は小児専門の心臓外科医になろうかと真剣に考えたほどです」。
一方で留学への希望も芽生えてきた。海外への憧れがあったのかと思いきや塩瀬氏から意外な言葉が出てきた。「実は僕、学生のときから外国人が苦手なんです」。“苦手”というモヤモヤした気持ちを解消するために、学生時代に塩瀬氏はあえてアメリカの医師国家試験(国試)の受験勉強を友人と始めた。しかし日本の国試の準備で多忙になり、アメリカの国試は受けずじまいに終わったことも、心にモヤモヤ感が残った。
■ 8年間に及ぶ海外勤務。肺移植の技術も磨く
2008年、米国クリーブランド・クリニックに留学。37歳という決して若くない年齢での渡米だった。
クリーブランド・クリニックは心疾患では何十年も全米1位を誇る施設だ。「当初は牛の心臓に人工心臓を植え込む手術をして、また牛を歩かせる、という研究をしていました」。すでに心臓外科の専門医として臨床の現場で長年技量を磨いてきた塩瀬氏にとって、それはそれほど難しい手術ではなかった。「研究用の牛はとても貴重です。死なせることなく手術をしていたので病院からとても喜ばれました。ある程度経験を積んだ37歳での留学は、私にはよいタイミングでした」と語る。
2年ほど経ったとき、当時の九大の教授から塩瀬氏のもとに電話がかかってきた。「人工心臓の実験をしているとのことだが、チーフとして帰ってこないか」「実験といっても動物が相手です」「エッ?……また、電話するわ」。
臨床経験を積む必要性を感じた塩瀬氏は、米国内の200ほどの病院に連絡を取った。その中で最初に面接に来るようにと返事をくれたのが臓器移植のメッカといわれるピッツバーグ大学だった。塩瀬氏は胸を躍らせた。一番行きたかった病院だったからだ。「生まれつき心臓が悪いと肺にも負担がかかるので、心臓と肺の同時移植が望ましいケースがあります。しかし日本ではほとんど行われていない難しい治療です。私はそうした患者さんのためにぜひ肺移植を習得したいと思ったのです」。
動物実験の論文や専門医であることなどが評価され、すぐに採用が決まった。そうしたとき教授から再び電話があった。塩瀬氏がピッツバーグ大学に採用されたことを伝えると、教授は「じゃ、もう1年アメリカで頑張れ」と言い、帰国は先延ばしとなった。
ピッツバーグ大学では1年間インストラクターとして働いた。インストラクターはレジデントやフェローとスタッフの間に位置づけられるポジションで、スタッフ同様に手術の責任を負う。「異国で責任者として手術をするのはすごく“シビれ”ました。手術の適応や合併症の発症率などを考慮して手術プランを構築するのに大変魅力を感じた」と話す。
仕事ぶりが認められインストラクターの上位ポジションであるスタッフにならないかと打診された。そのときまた電話がかかってきた。「臨床の勉強をしたのならチーフとして戻ってきてくれないか」「スタッフにならないかと言われているのですが」「アメリカでスタッフになった者は九大にはまだいない。帰ってこいとは言いづらいやないか !」。
ピッツバーグ大学に来て1年ほど経った頃、フィラデルフィアにあるテンプル大学の心臓外科医で世界的に有名な豊田吉哉氏からスタッフ兼ディレクターとして来ないかとの誘いがかかった。
テンプル大学で塩瀬氏は、スタッフとして学生に教える立場にもなった。また、病院の管理者としての役割も加わった。ある時、ECMOの数が少なく重症患者の受け入れ数が少ない状況を改善したいと病院のCEOが塩瀬氏に相談に来た。塩瀬氏はECMOセンターをつくり、ECMO専用の救急車があるとよいのではと提案。「驚いたことに1カ月ぐらいしたら救急車ができてきました。患者さんの数が約2倍に増えてCEOから『お前を信じて良かった』と感謝されました」と当時のエピソードを語る。
豊田氏とともに塩瀬氏も肺移植を積極的に行い、テンプル大学の肺移植数は急増した。着実に実績を重ねていたとき、今度は思いもよらない連絡が来た。「教授選を考えたことはあるか」。アメリカに残ることも考えたが、母校が自分を必要とし地域に貢献できることにも意義を感じ始めた。8年にわたるアメリカでの医師生活に終止符が打たれ、地元福岡に戻る決断をした。
■ 多くの引き出しと絶対に治すという気合

かつては心臓手術の死亡率は高く、いかに死亡率を下げるかが大きな課題だった。しかし死亡率が5%を切った今日では、できるだけ低侵襲の手術にすることが求められている。その一つとして塩瀬氏らは胸骨を切らない低侵襲心臓手術を積極的に導入。同時に、死亡率をよりゼロに近づけるためにさまざまな取り組みも行っている。例えば塩瀬氏が数年前に世界に発表した新しい術式もその一つだ。人工心臓は左心室から血液を吸引し大動脈に送血することで左心室の機能を補助するもので、右心室が動かないと基本的に成り立たない。ところが右心室が動かなくても人工心臓だけで生きていける術式を開発したのだ。
「単心室で生まれてくる小児がいます。その場合、上下大静脈からの血液を直接肺動脈に流れ込ませる手術をします。この手術と人工心臓を組み合わせました。私が小児の心臓外科に携わっていたことで思いついた術式です」。この画期的な術式は世界から注目され、多くの問い合わせが来たという。
とはいえ、機器である人工心臓は止まる可能性があり、ゴールドスタンダードは心臓移植である。「日本ではドナーの数が少なく、しかも冠動脈や心臓弁などがパーフェクトな状態の心臓はあまり出てきません。ただ、冠動脈が狭ければバイパスをつくればいいし、弁に問題があれば人工弁で対応できます。しかし筋肉がきちんと働かないとどうしようもない。そこで私たちは大阪大学特任教授の澤芳樹先生たちとiPS細胞由来の心筋シートの共同研究を行っています」。
塩瀬氏は、「他の外科は切除外科、心臓外科は機能外科」と説明する。「一つしかない心臓をいかに修復しながら最適化して動くようにするか。そのための方法として一般的な心臓手術に加え、人工心臓、移植、心筋シートなどがあるのです」。
インタビューの最後に「心臓外科医に必要なものは?」と問うと、塩瀬氏は即答した。「いろいろなものを見てたくさんの引き出しを持っておくこと。そして、『患者さんを絶対に治す』という気合を持つことです」。
取材・文/荻 和子 撮影/轟 美津子
