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岩手医科大学 医療安全学講座 肥田 圭介教授 状況の変化にしなやかに対応しながら自分の気持ちに忠実に医師の道を歩んできた肥田圭介氏。消化器外科医から医療安全管理部長へ──。「己の信じるところ誠在り」。この言葉を胸に、肥田氏は今、患者が安心して医療を受けられる環境づくりに全力で取り組んでいる。 |
■ 自ら手を挙げ関連病院へ。手術件数を激増させ、外科の評価を高める
岩手県内有数の進学校で高校時代を過ごした肥田氏。刺激のある仕事をしたいと医学部への進学を希望した。しかし県内で医学部のある大学は私立の岩手医科大学のみ。経済的なことを考えて一度は諦めかけた。そうしたとき知ったのが県の医学生奨学金制度だった。これが肥田氏に医師への扉を開けてくれた。
当時、同大学附属病院で一番大きな医局が外科だった。治療をすれば結果が出やすい外科に惹かれた肥田氏は卒業後、迷わず外科教室に入局した。
その頃の日本では食道がんの手術成績はあまりよくなく、合併症も多かった。同大の外科では合併症を少なくするための先進的な取り組みを行っていた。「食道がん手術の名医といわれた故石田薫先生の手術は必死に見ました。石田先生は患者さんを治したいという思いが誰よりも強い方でした。また、烈火の如く怒ったかと思うと、何事もなかったかのように飯に行こうと寿司屋に連れて行くといった、とても人間味あふれた方でもありました。石田先生のような外科医になりたいと強く思ったものです」。
入局して10年目、能代にある関連病院の秋田厚生連山本組合総合病院の外科科長の席が空席となり、医局から医師を派遣しなければならなくなった。しかし、誰も病院から遠く離れた土地への異動を受けようとはしない。そのとき手を挙げたのが肥田氏だ。「いろんなことに挑戦できそうだと思ったからです。医局からは『どうぞ、どうぞ』といった感じで送り出されました(笑)」。
同総合病院の外科は肥田氏と同大の後輩2人の小所帯。肥田氏は着任するや、2人を前にこう宣言した。「みんなで頑張って手術を増やして、ここの病院の外科はすごいぞって言わせてやろうじゃないか」。肥田氏らは地域の開業医とも積極的に連携し、手術件数をどんどん増やして外科の評価を高めていった。宣言したとおりになったのだ。
「病院も地域の人々も温かい人たちばかりで、能代での3年間はとても充実していました。私にとって大きな財産です」と肥田氏は振り返る。
■ 母校を腹腔鏡手術の全国トップクラスに。手技の習得に努める

新任の教授は当時普及しつつあった腹腔鏡手術を外科のメインにすることを打ち出した。「私たちスタッフは皆、この地域でそこそこやれればいいんじゃない、という感覚を持っていました。教授は『そんな狭い了見ではだめだ。全国レベルになれ』と各臓器のチーフに腹腔鏡手術の修練をするよう指示しました。私も自ら希望してがん研有明病院や大阪医科大学(現・大阪医科薬科大学)など胃外科が有名な病院へ研修に行きました」。肥田氏たちの意識は地域から全国へと広がっていった。「中でも一番印象に残っているのは韓国ソウル大学に2週間留学したことです。韓国の胃外科の第一人者であるハンカン・ヤン教授(Prof. Yang, Han-Kwang)にとてもお世話になりました。本当に濃い時間を過ごさせてもらいました」。
日中韓セミナーに毎年参加して演題発表をしたり、米国の学会に出席するなど世界との接点も多くもつようになった。その一方で、地域の病院に出向いてマスターした腹腔鏡手術を後輩たちに指導することも怠らなかった。
そんな折、東北地方は予期せぬ災禍に見舞われた。2011年3月11日、三陸沖で発生したM9.0の東日本大地震だ。
■ 東日本大地震で地域医療支援室長として手腕を発揮
幸い同大学附属病院の建物の損壊はわずかだった。しかし、岩手沿岸部の拠点病院は津波の甚大な被害を受けていた。同大学はすぐさま附属病院に災害対策本部と大学に災害時地域医療支援室を設置。その室長に肥田氏が指名された。その理由について、「当時、私は外科の医局長をしていました。沿岸地域には外科の関連病院が多くあり、また外科出身の病院長も多くいらしたからだと思います。あるいは、こいつだったらちゃんとやってくれると思われたのかもしれません」と肥田氏は話す。
同支援室の主な仕事は、沿岸部の拠点病院への長期的な医療支援ができるスタッフを募り、マッチングを行うことだった。被災地の医療再生の大きな一助となったこの支援活動に対し、その年の暮れ、岩手県知事から感謝状が贈呈された。
翌2012年、肥田氏に突然、「医療安全推進室の室長に」という医療安全管理部長からの要請が舞い込んだ。肥田氏にとって医療安全は門外漢だ。断ろうとする肥田氏に、「先生は座っているだけで大丈夫。全部周りの看護師がやりますから」と管理部長。困った肥田氏が上司に相談したところ、「声をかけられるのはそれだけ期待されているということだから受けなさい」と勧められた。
その時はまだ兼任で、本業の外科医としての仕事の合間で行えばよかったものの、「引き受けた以上は」と、肥田氏は医療安全の勉強を始めた。他科でどんなことが行われて、どんな人がいるのかを知るところからの、文字どおりゼロからのスタートだった。
2014年に医療安全に関する重大事案が2つの大学病院で発生した。両病院とも特定機能病院だったことを重く見た国は、特定機能病院の承認要件を変更し、2018年までに専従の医師、薬剤師、看護師を配置した医療安全管理部門を設置するよう義務づけた。
同大学も特定機能病院である。医療安全部門の専従医師を配置しなければならない。そのポジションに適した医師は肥田氏以外に見当たらなかった。大学は医療安全学講座を新設し、そこの教授のポストを用意した。しかし専従ということは肥田氏がこれまで積んできた外科のキャリアを捨てることを意味する。
「正直、いろいろな葛藤はありました。ただ、私が身につけた手術技術や知識は後輩たちにすべて伝え終わっています。それならば、兼務とはいえ6年ほど医療安全に携わってきた私が引き受けるしかないでしょう」。肥田氏の気持ちは定まった。
■ 医療事故が発生。被害者家族に真摯に対応

また、院内のスタッフも医療安全への理解が十分とは言い難かった。「私もかつてそうだったのですが、特に医師は、医療安全はナースの担当であり、自分たちには関係ないと思っていました」。肥田氏が医師にインシデントレポートを書くように伝えると、「医療安全室の連中が事故を起こせって言ってるよ」と心ない言葉を吐かれることもあった。「そんなことを言われたら、外科医時代の私だったらカチンと来てすぐに喧嘩をしていたでしょうね。でも、いろいろな経験をしてグッとこらえられるようになったので(笑)、そのようなときも丁寧に対応しました」。
こうした肥田氏の地道な活動が少しずつ実を結び、スタッフの医療安全への理解の深まりを感じはじめていたまさにそのとき、肥田氏のもとに緊急の連絡が入った。2023年10月19日、入院していた重度の障害がある19歳の男性が、たんの吸引で適切な対応がとられずに窒息し、死亡したのだ。
病院は即、緊急安全対策会議を開催。医療事故調査・支援センターへの報告と、医療事故等調査委員会の設置を決定。その委員会に肥田氏も加わった。
「調査委員会に患者家族支援団体の代表の方に参加していただきました。その方から、例えば医師や看護師が話している内容が専門用語だらけでわからないといった意見もいただきました。こうした意見は、私たち医療者にとって医療事故に遭われたご家族の理解につながる貴重なものでした」
同委員会の調査の進捗状況を被害者家族に適宜報告。そのとき肥田氏が心がけたのは事実を隠さず、質問にはすべて答えることだった。2024年6月に事故調査は終了し、7月には報告書が被害者家族に渡された。そして7月末、病院は記者会見を開き、医療事故を公表した。頭を下げ謝罪するメンバーの中に肥田氏の姿もあった。
こうした肥田氏らの誠実な対応に、被害者家族は後に「医療過誤 原告の会」の会報でこうつづっている。「事実を解明することは遺族と病院双方にとっても辛いものであり、さらにそれを過失と認めることは、県内随一の大病院にとっては勇気と覚悟のいることだったと思う。しかし、それがあったからこそ私たちは和解へと進むことができた」。
肥田氏は「報告書ができたからといって終わりではありません。私たちはこれを契機に、これまで以上に医療安全に努めなければなりません」と明言する。
同大学ではその年の10月5日、医療安全シンポジウムを初めて開いた。肥田氏もパネリストとして登壇し、再発防止を誓った。
今もなお、医療安全のあるべき姿を模索しつづけているという肥田氏。そんな肥田氏の唯一の息抜きは50歳になって始めた登山という。「辛い思いをして登った先に頂上到達という喜びがあります。医療安全と通じるところがあるかもしれないですね」。肥田氏は優しい笑顔でそう締めくくった。
取材・文/荻 和子 撮影/伊藤輝彦
