JMS情報誌「SIESTA」インタビュー

広島大学大学院医系科学研究科 救急集中治療医学

志馬伸朗教授

「私は子どもの頃から右を向けと言われたら左を向くタイプでした」と話す志馬伸朗氏が取材中、何度も繰り返した言葉が「私は面白味のない人間です。記事にするようなことは何もないですよ」。言葉とは裏腹に志馬氏が歩んできた人生はユニークだ。わき道を歩き続けていたら王道に繋がっていた、こんな感じかもしれない。

■ 小児集中治療と感染制御を兼務する希少な存在に

 志馬氏によれば、医学部に進学したのは単に進路担当の先生から勧められたから。徳島大学を選んだのは入学試験に苦手な物理がなかったから。研修先を京都府立医科大学にしたのは、出身の京都に戻りたかったから。麻酔学教室に入局したのは、一つの病態や領域に興味がなかったから。「これをよく言えば、ジェネラルな医療が面白いなと思ったということでしょうか」とさらりと自己分析する。
 研修医2年目にはサブスペシャリティとして集中治療とペインクリニック、外科を回った。京都府立医科大学の集中治療室は小児のみだったが、「結構面白かった」と志馬氏は振り返る。また、外科の研修で行った病院では救急科の専門医がいない中で、次から次へと搬送されてくる救急患者の診療に当たった。
 研修修了後、いくつかの大学の関連病院で勤務。その間、知り合いの医師に誘われて犬を使っての体外循環の実験を行った。この経験があったからだろうか、再び同大学の小児集中治療室に戻ってきて3年ほど経ったとき、研修医時代に薫陶を受けた佐和貞治氏(現同大学附属病院長)から米国カリフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)に来ないかと声を掛けられた。当時、佐和氏はUCSF麻酔科のアシスタントプロフェッサーで、緑膿菌による重症肺炎の研究をしていた。「留学を希望していたわけではありませんが、誘われたので」と渡米。UCSFでは、動物に細菌による肺炎を発症させたり、抗体を打ち込んだりする動物実験を担当した。
 米国同時多発テロ事件が起きた2001年に帰国。ちょうどその頃、日本では院内感染が大きな問題となり、各病院でICD(インフェクションコントロールドクター)やICT(インフェクションコントロールチーム)の導入が進められていた。米国での経験から、志馬氏はICD資格を取得し、小児集中治療と感染制御を兼務することになった。現在でも集中治療と感染症の専門医の資格を持つ医師は全国で数十名ほどしかいない。
 「当時、小児集中治療室は北向きの寒い部屋で、冬には患者さんの頭の窓に結露対策でタオルを敷いていました。医療の質が高いか低いかは別にして、細々と一人でやっていました。感染制御についても、正しいかどうかわからなかったけれど、周りの人に教えていただきながら独自に進めていました。誰もがあまり興味を持たないことをやるという満足感がありました」
 そのような生活を10年間続けて「そろそろいいかな」という気持ちになったとき、国立成育医療研究センターから部長職のポストを打診された。しかし、これまでと違うことをしたいからとあえて非常勤を希望し、軸足を京都医療センターの救命救急センターに移した。
 「一つのことをやり続けるのが苦手なんです。将来設計を描いたこともなく、その時々で面白いと思ったことをやってきただけ」
 さらに、志馬氏に面白そうな話がもたらされた。広島大学医学部の教授公募に応じないかと複数の人から勧められたのだ。

■ 救急医学教室から救急集中治療医学教室へ

 「特に広大に行きたいわけでも、教授になりたいわけでもありませんでした。多分、大学側も『志馬? それ誰?』という感じだったのではないでしょうか。第一、名前も読めないし」。それにしても、運命とは不思議なものだ。大学を通じたつながりもなく、知人もほとんどいない広島に来ることになったのだから。
 着任してまず行ったのが救急医学教室から救急集中治療医学教室への名称変更だ。「スペシャリティ部門の救急科専門医とサブスペシャリティ部門の集中治療科専門医を連動させたかった」とその意図を話す。これにより、すでに整備されているドクターヘリ診療から救急外来、集中治療までを一か所で行えるようになった。また、外傷も急病も、内因性疾患も外因性疾患も、小児も成人もすべて対応できる施設になった。志馬氏は「患者さんのメリットを考えると、そうせざるをえなかっただけ」と穏やかな口調で付け加える。
 新型コロナウイルス感染症がほぼ収束した2023年3月、第50回日本集中治療医学会学術集会が京都国際会館で開催された。その大会長を務めたのが志馬氏だ。告示ポスターには大樹の下に3人の集中治療科医が凛々しく立つイラストが描かれている。テーマは、春の季語である「風光る」。志馬氏は開催の挨拶にこんな散文を寄せた。

ふと見上げた枯れ木の向こうの空には
意外なほど強くなった日差しがあり
3月の柔らかくなった風が
きらきらと光っている

漸く、春が来たのだ

思えばこの度のコロナとの戦いは長く
多くの悲しい犠牲者を生み出した
そしてその中で、あくまでも勇敢に、淡々と
 戦い続けたのは
集中治療に携わる仲間達であった
   (略)

こういう場合、「第50回日本集中治療医学会学術集会を開催させていただく運びとなりました、これも云々」といった挨拶文が一般的だ。「でも、それじゃ面白くないでしょ。要は、私はひねくれ者なんです」と軽くかわす。

■ 救急集中治療に必要なのは、少しのスペシャリストと多数の「なんでも屋」

 日本における救急科専門医は約5,800人、集中治療科専門医は約2,500人で、欧米諸国に比べると圧倒的に少ない。また、国内での地域格差が大きく、人口規模に比べ広島県は断然少ない。こうした状況の中で迎えたコロナウイルスパンデミックは、救急科医や集中治療科医の不足を改めて浮き彫りにした。
 志馬氏は今、スタッフの増強や育成に注力している。そのために充実させたのがホームページだ。敗血症治療やECMOセンター、小児医療、緊急被ばく医療、整形外傷診療など同大学救急集中治療医学の特徴が並んでいる。
 2024年4月から、いよいよ医師の働き方改革の新制度が施行されるが、これについては「それほどの影響はない」と志馬氏は答える。同大学病院救急集中治療科では全国に先駆けて「チーム主治医制」を採用しており、患者が亡くなったときもチームの誰かが対応すればよいことになっている。また、日勤と夜勤を区別する交代制を敷いているので、働いたあとにはしっかりと休息を確保し、家庭のこともおろそかにしない勤務が可能だ。こうした体制が歓迎されているのだろう、29名の常勤医のうち、女性の常勤医は11名で、その中には小さな子どもがいる医師や出産を控えた医師もいる。
 救急集中治療は一つの医療技術に卓越したスーパードクターだけでは対応できない分野だ。もちろん、救急集中治療においてもスーパードクターは必要だが、その数は少なくていいと志馬氏は考えている。より多く求められるのは、さまざまな臓器疾患の診断・治療に精通し、病態を考慮して、必要に応じて他の診療科と連携しながら周術期管理や救急対応も含むあらゆる適切な治療を行えるいわば“なんでも屋”だ。志馬氏は、なんでも屋を「平たく見て、薄く埋められる人」とも表現する。総合診療と似ているが、救急集中治療には“限られた時間で”という条件が付加される。「だから救急集中治療は面白い」と語る志馬氏はこう続ける。「私みたいな取り柄のない人間が考えることは医療の質の底をちょっとずつ上げること。それには、ほんの少しのスペシャリストと多くのジェネラルなマインドと広い視野をもった医師が必要なのです」。

■ 英知と技術を集めて、救えるいのちを救おう

今年6月開催の日本集中治療医学会
第8回中国・四国支部学術集会ポスター
 人に言えるほどの趣味はないという志馬氏が、あえて挙げたのが低山歩き。京都にいたときには大文字山や吉田山などを、広島でも近場の低山を、時間を見つけては散策しているそうだ。「グルメでもないし、車にも乗らないし、ほんとに特徴がなくてすみません」。いえいえ、そこが志馬氏のユニークな個性と捉えたい。
 志馬氏がこれだけは伝えたいと、こう語った。「救急集中治療医学の同僚たち、教授会、メディカルスタッフ、事務職員に至るまで、現場の職場の皆さんには本当によくしていただいています。感謝しかありません」。この誠実なやさしさが周りの人までもあたたかくさせてきたのだろう。
 2024年6月に日本集中治療医学会第8回中国・四国支部学術集会が広島市で行われる。このポスターも第50回同医学会学術集会同様にイラストを用いた。描かれたのは原爆ドームに隣接する新しい観光スポット・おりづるタワーから見た、夕日に染められ、時が一瞬止まったかのような広島のまち。イラストには「夕凪の町にて」という学会テーマが配されている。最後に、「ひろしまの丘にて」と題された志馬氏のホームページの挨拶文を紹介しておきたい。

教授室に掲げられた、広島カープ・黒田博樹選手
200勝記念のユニフォームと共に
ここに来て、考えたこと
そう遠くない昔に、失われなくてもよい多くの
 いのちが奪われたこと
しかし、残った人々の手により、この街は
 みごとな回復を遂げたこと
それもこれもみな、人の営みの側面であること
   (略)
できることは限られているかもしれない
失われてしまういのちの方が多いかも
 しれない
しかしできるだけの英知と技術を集めて、
 救えるいのちを救おう
   (略)
そんなことを、桜の散る春の日に、
 ひろしまの丘で考えた

取材・文/荻 和子 撮影/轟 美津子

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