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近畿大学医学部心臓血管外科 坂口元一教授 2019年より近畿大学医学部心臓血管外科を率いる坂口元一氏。ここにたどり着くまでには、本人も予想しなかった道筋を経てきた。その都度、状況の変化にしなやかに対応しながら確かな実績を残してきた。 |
■ 部活やヘビメタバンドの活動に明け暮れた高校時代
兵庫県姫路市生まれの奈良県天理市育ち。中学・高校時代は大阪で過ごした。「大学受験の勉強を始めたのは高3のとき。それまではワンダーフォーゲル部とヘビメタバンドの活動に夢中で、勉強はそっちのけでした」と坂口氏は笑って振り返る。
進路を考えはじめた頃、ある友人から「いつまで遊んでいるんだ。一緒に京大医学部へ行こうぜ」と声を掛けられた。1歳年下の弟は早くから医学部進学を宣言しており、また曾祖父の代から続く医者の家系であったことから、医師になることを決意。3年生から猛勉強を始め、2年後、希望した京都大学医学部に合格した。
「当時の京大はとてもゆるくて、試験さえ受ければ進級できました。それをいいことに、全学のスキー部に所属し、1年のうち3カ月はスキー場にいました」と苦笑する。
専門を何にするかまだ決めていなかった坂口氏は大学のポリクリで心臓手術を見て興味を持った。「執刀するのは一人の教授で、その周りに数名の助手の先生がいました。話を聞くと『執刀するまでに何十年もかかるよ』と言われ、逆にこれは面白そうだなと思いました」。
当時の日本の心臓外科手術は今日ほど治療成績がよくなかった。そのため、日本中の名だたる心臓外科医たちは安全性の高い手術法を確立しようと懸命だった。そのことも坂口氏の心を動かした。また、大阪大学医学部に進んでいた弟が心臓外科医を目指していたことも後押しとなり、坂口氏は心臓外科医への道を選択する。
■ オーストラリアに留学し充実した日々を送る

帰国後、留学に備えてドイツ語の勉強をしていたとき、思いもかけない展開が訪れる。「オーストラリアのメルボルン大学オースチンメディカルセンターのポストに空きが生じたからアプライしないか」との話がもたらされたのだ。同センターの心臓外科・心臓血管外科は欧米に比肩する実力をもっている。留学先こそ異なるが、坂口氏にとっては願ってもないチャンスだった。1998年、33歳のとき坂口氏は家族とともに渡豪した。
最初の1年はリサーチラボに在籍し、研究に打ち込んだ。心筋梗塞を起こしたラットにバチスタ手術(左室部分切除術)を施し、その心臓内のタンパク質をコードするメッセンジャーRNAの発現について研究を行い、論文を書いてクリニカルポストを待った。翌年からは、オーストラリアで有名なブライアン・バクストン(Brian Buxton)教授のもとでクリニカルフェローとして臨床のトレーニングを行った。
「日本の心臓外科の手術は緊張した、ピリピリした雰囲気の中で行われていました。ところがバクストン先生のオペでは皆が時々冗談を言ったりして、集中とリラックスのバランスが絶妙なのです。この雰囲気が何より気に入りました」
坂口氏は、毎日3回ほどの手術を行うとともに、オースチンメディカルセンター前の道路をはさんで反対側にあった大きな私立病院でも週に1回、上位医師のプライベート患者への手術を手伝った。
「手術がある日でも夕方には帰宅できたので、家族とゆったりと過ごすことができました」。楽しく充実した生活を送った坂口氏に大学の医局から帰国するようにと連絡が来た。2年半の留学生活にピリオドが打たれた。
■ 倉敷中央病院でステントグラフトを立ち上げる
大学に戻り、臨床の傍ら再生医療に関する研究を行い博士号を取得した坂口氏は、知己の教授のいるシンガポールへ再び留学しようと思いはじめた。家族でシンガポールへ下見にも行ったが、迷っていた坂口氏に大学から倉敷中央病院への異動が打診された。同病院は京大系の中でも手術件数の多いことで知られていた。二つ返事で受け入れた。
「倉敷中央病院では緊急手術がひっきりなしに入ってきていましたし、軽度から重度までさまざまな手術に携わることができました。私の心臓外科手術の技はこの病院で大きく磨かれました」
坂口氏の術式の幅が広がったのも、同病院時代だ。当時、日本では大動脈瘤のステントグラフト治療が始まったばかりだった。坂口氏は部長からステントグラフト治療をできるようにしてほしいと頼まれた。しかし、当初坂口氏は断り続けた。ステントグラフト治療ばかりを行うようになり、他の心臓手術ができなくなると思ったからだ。それでも何度も言い続ける部長の熱意に負け、他大学でステントグラフト治療法を習得した。
「喜んで始めたことではなかったのですが、倉敷中央病院でかなりの数のステントグラフト治療ができたし、指導医として各施設に行く機会にも恵まれました。そうしたことが評価され、大動脈瘤の他の手術もたくさん任せてもらえました。お蔭で大動脈瘤は私の得意分野になりました」
2010年、新しい治療法TAVI(経カテーテル的大動脈弁置換術)の保険収載に向けた治験が倉敷中央病院を含めた3施設で始まった。同病院では坂口氏がその担当となった。治験が終わり、保険収載が認められそうだというまさにその時、坂口氏に再び大学より異動命令が出された。赴任先は静岡県立総合病院で、課せられたミッションは症例数を増やすことだった。坂口氏は後ろ髪をひかれる思いで静岡へと向かった。
■ 「200例やらしたクラブ」を実践し人材育成
着任当初の忘れられない出来事がある。内科から紹介されてきた胸部大動脈瘤患者の家族に、坂口氏は1時間ほどかけて一生懸命説明をした。それを聞いた家族が返した言葉はこうだった。「手術の必要性はわかりました。ただ、ここよりS病院のほうが圧倒的に手術件数が多いので、そちらへ紹介状を書いてください」。手術件数を増やすことの重要性を改めて思い知らされた。
それからの坂口氏は、病院の全面的な協力を得て、当時静岡県内でほとんど行われていなかったステントグラフト治療やTAVIを開始し、多くの手術を成功させて評判を高めていった。県もアンギオハイブリッド手術室やハイブリッドCT室、ハイブリッドMRIなどが入る手術棟の建設を計画してくれた。「少し残念なことに、新しい手術棟ができる前に小倉記念病院への異動が決まりました」。
小倉記念病院で坂口氏に課せられた最大のミッションは人材教育だった。「ここにいた2年間での私の一番の功績は、2人の中堅スタッフに年間200例手術を執刀してもらったことです。彼らは今、心臓外科医として活躍しています」。
そのバックにあったのは坂口氏が心の中で作った、「200(例やった)クラブ」ならぬ「200例やらせたクラブ」だ。年間200例執刀することを自らに課すだけでなく、後輩にやらせる。自分が若い頃、手術をなかなかやらせてもらえなかった悔しさを後輩たちに味わわせたくないとの思いを込めた。
2019年、坂口氏は高校を卒業して以来、三十数年ぶりに近畿大学医学部の教授となって大阪に戻ってきた。
■ 大阪南部医療圏の国立循環器病医療センターを目指して

着任してすぐに行ったのが近隣の開業医への営業だ。循環器疾患は何でも近畿大学に紹介してほしいと名刺を配って歩いた。また、リスクが高く他医療機関では躊躇するような手術も手掛けた。これまであまり取り組んでいなかった学会での発表も積極的に行い、病院の知名度を上げていった。こうした活動が手術数を大幅にアップさせ、医局員の手術の機会も増え技術レベルを上げていった。「誰が当直医であっても緊急手術の執刀ができます」と坂口氏が語るほど、高度な技量を持つ医師が育っている。
もう一つ坂口氏が取り組んだのが、出入り自由の医局づくりだ。「従来のような一度入ると、そこに縛り付ける医局のあり方では、今の時代、人を集めることは困難です。1、2年医局にいる間に良いポジションを探してもいいし、地元に帰るまでの修練の場としても構わない。各人が描く将来像に合わせて医局をうまく利用してほしい」と呼びかける。
これまで心臓外科医になる近畿大学卒業生はほとんどいなかった。「興味をもつ学生を6年生ぐらいから囲い込む策を取っています(笑)。今、一人の卒業生が私がかつて勤務した静岡の病院で後期研修中です」と坂口氏は嬉しそうだ。
坂口氏のミッションは着々と遂行されている。
スポーツ好きの坂口氏は、目標タイムをクリアする競技より、達成を目的にしたスポーツのほうが自分に合っていると、時間があるときはトレイルランやロードバイクで汗をかく。「やっているときは苦しいけれど、頑張れば数時間後には必ず終わりがきます。これは手術にも通じます」と話す。
大阪に戻ってきて、高校時代の友人たちがギターをプレゼントしてくれた。それをきっかけに音楽を再開。「来週ライブに出演するので自宅の音楽ルームで爆音鳴らして練習中」と笑みをこぼす。
近畿大学病院は2025年11月、今ある大阪狭山市から堺市に新築移転する予定だ。手術室やICUが増え、最新の医療機器も導入されることになっている。
「大阪南部医療圏の国立循環器病医療センターを目指します」。坂口氏は力を込めて言い切った。
取材・文/荻 和子 撮影/轟 美津子
