JMS情報誌「SIESTA」インタビュー

湘南鎌倉総合病院

小林修三院長

クラシック好きで
オーケストラの指揮者になりたかった
少年は、今、
湘南鎌倉総合病院という
2,000人余りのスタッフをまとめる
院長として、
患者一人ひとりの心に響く
美しく力強い音楽を創りだしている。

■ クラシック音楽が生涯の友に

 小林修三氏は大阪市のど真ん中出身。子どもの頃、喘息をわずらっていた小林少年にとって医療は身近なところにあった。中学生になって大阪大学医学部の学生が家庭教師についた。オーケストラ部に入っていたその家庭教師は小林少年にベートーヴェンの交響曲第5番「運命」と第8番の入ったレコードをプレゼントしてくれた。たちまちクラシック音楽に魅了された小林少年はいつしか音楽の道へ進みたいとの思いを募らせていった。「父に指揮者になりたいと言ったら、『音楽は音を楽しむと書くように、趣味として楽しめばいい』と一笑に付されました。確かにピアノもあまり弾けないし、指揮者になるのは無理かなと。意外に私、素直な子でしたね」と小林氏は笑う。
 その家庭教師は解剖学や生化学など医学の話もしてくれた。「その話も面白かったし、何より英語で書かれた原書を持っているのがかっこよくてね。それで医学部に進むことにしました」。入試は残念ながら不合格だったが、浪人生活はわずか3カ月で終了した。当時、医師不足を解消するため、国は医科大学・医学部の新設を進めていたが、国会承認が遅れ、1974年の6月という中途半端な時期に浜松医科大学が開校し、入学試験が行われたのだ。4,000人近い予備校生が受験し、小林氏を含む100名が第1期生となった。
 「校舎は静岡女子短期大学の構内横にあるプレハブでした。昼休みにみんなで短大に行っていたら、ある日突然『医大生入るべからず』という看板が立ってね」と小林氏は楽しそうに振り返る。

■ 腎臓病の進行を抑える内科の道へ

 小林氏の人生に大きな影響を与えた3人の恩師がいる。一人は、腎臓内科の道に導いた本田西男氏だ。
 小林氏は4年生から透析クリニックでアルバイトをした。当時は、今日のようにエリスロポエチン剤は開発されておらず、多くの患者が強い貧血に悩まされ、生存期間も短かった。そこへ登場したのが腎移植だった。透析患者の大変さを目の当たりにしていた小林氏は、透析治療を受けなくてすむ腎移植をやりたいと、卒業後は泌尿器科に行くつもりだった。
 6年生の1月、小林氏の人生の軌道が大きく変わる出来事があった。ある日、廊下で腎臓内科教授の本田氏に突然声を掛けられた。「君は何科に行きたいのか?」。「泌尿器科に行くつもりです」と答えると、本田氏は「なぜか?」と聞いてきた。「腎移植をして腎臓病の患者さんを治したいからです」と返事をすると、「それなら腎移植や透析治療を受けなくてすむように、腎臓病になっても進行しないようにすればいい」。ハッとした小林氏は「先生のおっしゃるとおりです」と答えると、本田氏はこう言った。「じゃあ、腎臓内科に来なさい」──小林氏の腎臓内科医としての医師人生が始まった瞬間だった。

■ 教えるとは希望を語ること、学ぶとは誠実を胸に刻むこと

 腎臓内科に進んだ小林氏は本田氏から丁寧で厳格なものの考え方を教わった。情熱を注いだのが、「腎臓病にさせない」「腎臓病を進行させない」「合併症で死なせない」ということ。腎臓病という本態に迫る研究をもっとしたかった。そうした小林氏の気持ちを察したのだろう。あるとき本田氏が「君はそろそろ外国に行きたいんじゃないか」とたずねた。「もちろんです」と即答すると、「どこに行きたいんだ?」と質問を続けた。このときの小林氏の答えが面白い。「ボストンのハーバード大学です。ボストン交響楽団の音楽監督をしている小澤征爾に会えるかもしれないので」。
 結局、小林氏が留学したのはテキサス大学サンアントニオ校の病理学教授マンジェリ・ヴェンカタチャラム(Manjeri Venkatachalam)氏、通称ヴェンク氏のラボだった。
 「ヴェンク先生は、常に疑問を持ち、他人が価値を置かないものに価値を見出すことが本来の人間のあるべき姿で、その最たるものが研究だと教えてくれました。また、正しいと信じることは勇気をもって正しい時、正しい言い方で、正しい人に対してしっかり言う大切さもヴェンク先生から学びました。ヴェンク先生は私の2人目の恩師です」と語る小林氏はフランスのルイ・アラゴンの詩「ストラスブール大学の歌」の一説を挙げる。「教えるとは希望を語ること、学ぶとは誠実を胸に刻むこと」。
 2年間の留学生活を終え、大学に戻った小林氏に3人目の恩師となる人との出会いが待ち受けていた。

■ 自らの医療の原点となった伊豆での5年間

 帰国して2年経った頃、本田氏から地域医療に貢献するようにと3カ所の病院を提案された。最初に面談に行ったのがNTT伊豆逓信病院(現NTT東日本伊豆病院)だった。そこの病院長_だった池田寿夫氏も実験好き。意気投合し、専門医もいない病院にもかかわらず、面談が終わる頃には小林氏は伊豆に行くことを決めていた。
 小林氏には忘れられない池田氏の言葉がある。「お金で解決するのは簡単だ」。言い換えれば世の中にはお金で解決できないことが多くあるということ。「小さなことにこだわらず、大きく遠くを見据えた生き方を池田先生から学びました」。
 37歳という若さで内科部長として入職した小林氏はここで5年間過ごした。「私の医療の原点はNTT伊豆逓信病院にあるといっても過言ではありません」。
 大学病院時代には接する機会が少なかった薬剤師や理学療法士、管理栄養士などと共にチーム医療で診療に当たった。また、往診にも行き、特別養護老人ホームに入居している高齢者の健康管理も行った。さらには、それまでなかった透析医療も始めた。ところがこの透析医療が組合に問題視された。
 「土曜日も透析をしていたのですが、組合は『土曜日は休みにしてほしい』というのです。私は『患者に休みはない』と強く抵抗しました。この思いがあったから、徳洲会をつくった徳田虎雄先生の理念『生命は平等』に強く共感したのです」

■ 「生命は平等」を理念に、弱者を置き去りにしない医療を目指して

 湘南鎌倉総合病院に興味を持ったのは自宅のある鎌倉からNTT伊豆逓信病院のあと移った他県の医科大学へ向かっていた江ノ電の中。同病院主催の医療講演の広告がずらりと並んでいた。「医師が講演をするなんて面白い」。勤務先の医科大学で起きた贈収賄事件に巻き込まれ辟易していた小林氏はすぐに同病院の扉をたたいた。そこにいたのが徳洲会グループ理事長(当時)の徳田虎雄氏だった。
 徳田氏は「生命は平等」の理念のもと、「いつでも、どこでも、誰でもが最善の医療を受けられる病院」を全国各地に創設してきた人物だ。その徳田氏は小林氏が42歳だと知ると、一言「若いな、今からなんでもできるぞ」と激励した。
 1999年、同病院に副院長として入職、2012年に腎臓病総合医療センター長を兼任、17年には院長代行、そしてコロナ禍にあっても一般診療も続けていた22年9月に院長に就任した。
 「当院のミッションの一つは安全安心をベースにした先端医療・質の高い医療を目指すことです」と語る小林氏は“弱者を置き去りにしないこと”をフィロソフィーとして掲げる。「そのためには精神科救急、周産期医療、認知症ケアなど、今後充実させなければならない領域がたくさんあります」。とはいえ、同病院だけではどうしても限界がある。そこで小林氏が今推進しているのが地域の医療施設との連携だ。「例えばカルテを共有するなど鎌倉モデルを構築していきたい」と意気込む。
 また、従来の治療成果ばかりに焦点を当てるのではなく、「暮らしに目を向けた医療が大事」とも話す。小林氏は腎臓内科医として透析患者が足切断に至らないようにフットケアに力を注いできた。「足を切断してはwellbeingな暮らしは成り立ちません。透析医療においても、良質な暮らしができる医療とは何かを常に考えてほしいとスタッフに言っています」。
 ちなみに、小林氏らが無料で行っていたフットケアを検証した論文が契機となって、下肢末梢動脈疾患指導管理加算が新設された。

■ 「この病院に来てよかった」と言われる病院に

 小林氏が同病院に移った1999年頃、3時間待ちの3分診療や救急患者のたらいまわしなど、医療を巡るさまざまな問題が取り沙汰されていた。そうした“冷たい医療”を危惧し、癒す医療の大切さを医療雑誌のコラムに書いたのをきっかけに2000年、「癒しの医療を考える会」が発足した。以来、毎年春と秋に小林氏による医療講演を含むクラシックコンサートが開催されている。モーツァルトは腎臓病で最後は心不全で亡くなった、ベートーヴェンは肝臓病をはじめ様々な病気を患っていた、など作曲家の病と音楽についての医療講演は毎回大好評という。
 医学が発達したとはいえ、残念な結果になることがある。しかし、たとえ結果がどうであれ、患者やその家族から、「この病院に来てよかった、このスタッフに会えてよかった」と言われる病院にするのが小林氏の目標だ。そのためには「大胆にして細心、決して小心であってはならぬ」と考えている。
 「Passion・Mission・Love」を合言葉に、病院を指揮する小林氏。数少ないオフの日には、お孫さんと公園を散歩することが楽しみだという。小林氏のお孫さんが大人になる頃、湘南鎌倉総合病院はどんな極上の調べを奏でているだろうか。患者も地域の人々も大いに楽しみにしているに違いない。

取材・文/荻 和子 撮影/轟 美津子

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