JMS情報誌「SIESTA」インタビュー

名古屋ハートセンター

北村英樹心臓血管外科部長

2018年秋、CCT(Complex Cardiovascular Therapeutics)
2018 Surgicalにおいて、大動脈弁手術のライブ配信が行われた。
この手術枠の時間は3時間。ところが執刀医である名古屋ハートセンター
心臓血管外科部長の北村英樹氏はなんと1時間43分で終了した。
もちろん手術は成功。北村氏の手術のあまりの速さに、
ライブを見ていた全国の心臓外科医たちは度肝を抜かれたという。
速く、かつ精度の高い手術を極める。
そこに北村氏の心臓外科医としての矜持があった。

■ すべては患者のために 理想の手術を追い求めて

 北村氏が医師を目指したのは小学生のとき。偉人伝を読んでは野口英世の大やけどをした手を、テレビを見ては四谷怪談のお岩さんの顔を治してあげたいと話していたという。
 名古屋大学医学部に進学した北村氏が、当初から興味を持っていたのが心臓だった。また、幼い頃から細かい作業が好きで時間を忘れて没頭していたこともあり、将来、手を動かす外科系に進もうと考えていた。その頃、心臓手術を見学する機会があった。心臓の拍動が停止し、再び動き出すのを目の当たりにして、北村氏の心は定まった。「心臓手術を極めたい」。
 卒業後の1998年、北村氏が研修先として選んだのは大垣市民病院だった。その理由がいかにも北村氏らしい。「忙しくて大変だから」。
 同病院は岐阜県西濃地区の基幹病院で、特に救急医療には多くの患者が集まっていた。「手を動かせる病院を狙っていたので、ここしかない!と思いました。実際、さまざまな患者さんを診ることができ、本当に良い経験をさせてもらいました」と感謝する。
 少しでも早く心臓外科に進みたいと、2年目に京都大学医学部附属病院心臓血管外科に移った。当時、医局を率いていたのが海外での華々しいキャリアをもつ米田正始氏(現福田総合病院心臓センター長)だ。米田氏から海外の事情を聞くにつれ、海外へ留学したいとの思いが強くなった。
 実は、北村氏が海外留学を意識しはじめたのは大垣市民病院時代の先輩との酒の席でのこと。「海外の病院に留学したら何千例という手術経験ができるらしいと聞いて、それはすごいと。何の裏もとらずに鵜呑みしたのです」と北村氏は笑いながらこう続ける。「手術技量を上げるには、やはり多くの手術経験が必要です」。
 京大に移って半年後、島根県立中央病院に2年間派遣された。同病院の心臓外科手術件数はそれほど多くなかったが、一般外科も回ることができ、専門医取得の条件である100症例数をクリアすることができた。また、2年間で論文を6本書き上げ、さらには英語を猛勉強して米国の医師資格試験USMLE(United States Medical Licensing Examination)のStep1と2CK(Clinical Knowledge)に合格した。「手術件数こそ少ない病院でしたが、とても中身の濃い2年間でした」と北村氏は懐かしむ。

■ 念願の米国留学がついに実現

 次に移ったのが当時、日本で最多の手術件数を誇っていた小倉記念病院心臓血管外科である。百戦錬磨の心臓外科医が集まるこの病院は、北村氏にとって毎日が刺激的だった。「飲み会でも、先輩方が、超音波メスのこちら側の面は切れるけれど反対側は切れない、メスを入れる角度は何度がいいと細部にまでこだわって議論するのです。学ぶことが山ほどありました」。
 新参者である北村氏が担当したのは、心臓外科手術の基本とされる「開胸」「グラフト採取」「カニュレーション」「閉胸」。北村氏はこれらの技術を徹底的に磨きあげていった。
 手術の手技は芸の世界と同じで、一流の医師のやり方を盗みながら習得していく。北村氏は時間を見つけては同病院心臓血管外科の部長で日本の成人心臓外科の第一人者である岡林均氏の手術を見学した。ただし単に見ていたわけではない。自分だったらどうするか……と常に自問しながら見つめていた。
 小倉記念病院に移って4年半ほど経ったとき、夏休みを利用してソルトレイクシティLDSホスピタルを訪ねた。そのとき対応したボスのDonald B. Doty先生とのエピソードが面白い。
 Doty先生は北村氏の手術技量を試すために、静脈グラフト採取を命じた。グラフト採りはこの4年半、必死に鍛えてきた技術だ。北村氏はさらりとやってのけた。Doty先生が次に命じたのがTAP(三尖弁輪縫縮術)という手技だった。実は、北村氏はそれまでTAPを一度もやったことがなかった。このとき活きたのが、岡林氏の手術をこれでもかというほど見学した経験だった。岡林氏の手術を頭の中で再現しながら北村氏はTAPを行った。Doty先生の口から出た言葉は、「ヒデキ、来ていいよ」。
 2006年、USMLEの2CS(Clinical Skills)の試験をパスし、長年の夢だったアメリカ留学が実現した。

■ 無駄なポーズを排除して手術速度を速める

 勇んで向かった米国だったが、待ち受けていたのは言葉の壁だった。「コミュニケーションにはある程度自信があったのですが、実際に仕事となると細かな表現が必要になります。私は医師、看護師、医学生、みんなに『これはどう言うんだ』と質問してはメモを取りました。“ヒデキのメモ”と有名になったほどです」と笑う。
 同病院は米国内ではそれほど多い症例数があったわけではないが、それでも500症例の手術に臨み、うち3~4割を執刀できた。
 2年間のフェローシップ・プログラムが終わり、ジョージア州でUSMLEの最終試験Step3に合格。州内の病院にシニアフェローとして行く準備をしていたとき、思いもよらないオファーが北村氏のもとに届いた。
 日本初のハートセンター、「豊橋ハートセンター」を運営する医療法人澄心会が、新たに「名古屋ハートセンター」を設立しようとしていた。その新病院の立ち上げに参画してくれないかという申し出だった。
 北村氏は豊橋ハートセンターを訪ねた時の印象を「ある種『手作り感満載』と感じ、むしろそこに感動を覚えました」と語る。お世辞にも広いとはいえない手術室に必要最小限の手術道具。その中で医師や看護師が手際よく手術を行っていた。そして、もう一つ決め手となったのは名古屋ハートセンター院長に就任が決まっていた大川育秀氏の懐の深い人柄だった。ゼロから病院をつくりあげるのも面白いかもしれない、そう思った北村氏は名古屋に戻ることを決意した。
 名古屋ハートセンター設立時の心臓血管外科部長は、京都大学時代にお世話になった米田氏だった。国内外で著名な同氏が在籍した4年間で症例数は200まで増えた。2012年にあとを引き継いだ北村氏はさらに300症例以上に増やした。それができた背景には、センター設立から10年が経ち、その存在が広く周知されてきたことが挙げられる。しかし、それだけではない。いや、それ以上に大きかったのは北村氏の患者や手術に対する真摯な姿勢が高く評価されたからだろう。
 北村氏は言う。「手術には“スピード×クオリティ”が必要です。そうすれば患者さんの身体への侵襲が少なく、予後もよく、早く退院できます。つまり、患者さんのメリットがとても大きいのです」。
 手術のスピードを上げるために北村氏は徹底的に無駄なポーズ(間)をなくすことにした。自身の手術ビデオを何度も見直しては、自分の動作の中で手が止まっているシーンを拾い出した。また、手術の流れの中にも不要なポーズがあった。これら一つひとつを丁寧に消していくにつれ、手術時間は短くなっていった。

■ 「絶対に患者のせいにしない」「手術に全てを出し尽くす」

 北村氏には、大切にしている2つの言葉がある。一つは小倉記念病院時代に岡林氏から言われた「できると判断し手術をした以上、全責任はその医師にある。絶対に患者のせいにするな」。もう一つは、思うように手術結果が出ないとき大川氏から諭された「術後に『ああすればよかった』はナシだ。手術に自分の全てを出し尽くせ」という言葉だ。
 北村氏は術前から全精力を使う。頭の中で「名古屋ハートセンター」を設立しようとしていた。その新病院の立ち上げに参画してくれないかという申し出だった。
 北村氏は豊橋ハートセンターを訪ねた時の印象を「ある種『手作り感満載』と感じ、むしろそこに感動を覚えました」と語る。お世辞にも広いとはいえない手術室に必要最小限の手術道具。その中で医師や看護師が手際よく手術を行っていた。そして、もう一つ決め手となったのは名古屋ハートセンター院長に就任が決まっていた大川育秀氏の懐の深い人柄だった。ゼロから病院をつくりあげるのも面白いかもしれない、そう思った北村氏は名古屋に戻ることを決意した。
 名古屋ハートセンター設立時の心臓血管外科部長は、京都大学時代にお世話になった米田氏だった。国内外で著名な同氏が在籍した4年間で症例数は200まで増えた。2012年にあとを引き継いだ北村氏はさらに300症例以上に増やした。それができた背景には、センター設立から10年が経ち、その存在が広く周知されてきたことが挙げられる。しかし、それだけではない。いや、それ以上に大きかったのは北村氏の患者や手術に対する真摯な姿勢が高く評価されたからだろう。
 北村氏は言う。「手術には“スピード×クオリ立体構築ができるくらいCT画像をずっと見続ける。全データを頭に入れ、起こり得ることも含めシミュレーションを繰り返す。それでもなお、時には想定外の事態が発生する。「そのときはガチンコ勝負。でもそれ、私、意外と得意です。それも、岡林先生や大川先生の想定外の時の対応を多く見て来た蓄積の成果だと思います」と笑顔を浮かべる。
 “スピード×クオリティ”を極限にまで高めようと努力を続ける北村氏の気分転換は、10年以上も前から始めたルービックキューブだ。休日には音楽を聴きながら、手術の日の朝は信号待ちをしている車中で、指のウォーミングアップを兼ねてルービックキューブを回す。パフォーマンスを下げないために体幹トレーニングを毎日行っている。質のよい睡眠をとることも心がけている。「心身が健やかな状態で手術に臨めるようにするのも仕事のうち」と言い切る。
 患者は医師に命を預ける覚悟をする。医師も覚悟をもって万全の準備をし、一例一例ベストを尽くす。患者にとっての理想の手術を極めたいという求道心は今なお熱く、北村氏の原動力になっている。

取材・文:荻 和子/撮影:轟 美津子